吉祥寺にある福井県出身男子学生のための学生寮

明倫学舎の設立と輔人会運営明倫学舎の成立(昭和前期)

一方明倫学舎は、旧大野藩主・土井利章子爵の創設によるものであり、輔仁会と同様の目的をもって運営された。当時土井家には、渡邊満太郎陸軍中将、古川鈊三郎海軍中将、加賀山学鉄道省局長、猪野毛利栄代議士、金森医学博士、ほか6、7名の顧問がおり、顧問からの進言を受け、昭和3年(1928年)3月以来、東京府下吉祥寺(当時)に旧大野郡出身の学生を収容するために木造二階建ての寄宿舎を建設し、多数学生の奨学育英に力を尽くした。

しかしその後、寮の建物にかかる不動産税の増大のため、土井氏個人で寮を経営することが難しくなり、当時の土地のうち一部を経営資金確保のために売却。だがそれでもなお経営は厳しく、昭和19年8月29日に、県の勧奨に応じ、明倫学舎の名称と事業の存続等を条件に、加藤初夫福井県知事あてに、明倫学舎の土地建物一切を無償寄付した。9月7日には県はこれを採納し、福井県明倫学舎と称したが、同年12月26日に財団法人輔仁会(加藤亮一理事長)に対してその管理および経営について依頼した。輔仁会は、翌昭和20年1月10日に県に申し入れを承諾し、明倫学舎の管理および経営について受託した。輔仁会は、その直後、5月に金富町学舎が戦火で烏有に帰したので、同地を東京都学校用地に売却し、現在は明倫学舎一本の管理運営に当たっている。

昭和33年8月、県費250万円をもって同学舎の改修工事を実施した。

昭和34年1月1日付にて「福井県奨学育英学舎条例」が制定公布された(ただし同条例は昭和47年3月22日付にて廃止された)。