吉祥寺にある福井県出身男子学生のための学生寮

財団法人輔仁会の設立(大正~昭和前期)

大正11年(1922年)7月1日、財団法人輔仁会が設立される。総裁に松平侯爵、副総裁に松平慶民子爵および県下の旧藩主を、初代理事長に草間秀夫氏をそれぞれ選任して発足した。なおこの年は、明治5年の学制頒布からちょうど50周年、また、明治15年の輔仁会発足から40周年に当たる年であった。当時、輔仁会学舎には、岡田啓介氏やその秘書官の福田耕氏らの名士が頻繁に訪問され、歴代舎監には歴史学者の平泉澄氏も名を連ね、在舎学生のなかには、のちに衆議院議長を務められる福田一氏や、作家の中野重治氏らもおられたとのことである。その後、建物の老朽化も進んだため、昭和3年、中興資金の募集を行ったところ、松平家、満鉄総裁の山本条太郎、実業家の飛島文吉、廣瀬太次郎の各氏をはじめ、広く浄財6万円が寄せられ、これを基金として同地に新学舎の建設に着手し、昭和9年9月竣工を見るに至った。なお、従前より福井市に輔仁会支部を設置し、昭和17年頃まで、県下中等学校卒業生の中から優秀者1名に輔仁会賞状および賞品を授与した。

このあいだ、輔仁会学舎に寄宿した学生の数は、昭和18年までに2千数百名を超え、そのなかには、戦後渡米して活躍される物理学者の南部陽一郎氏(現・財団法人輔仁会顧問、2008年ノーベル物理学賞受賞)もおられた。また、貸費学生の数も200余名に達した。しかし金富町の学舎は、昭和20年5月23日の空襲により惜しくも焼失。その跡地は現在、文京区立金富小学校の校庭として利用されている。